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台湾旅行記 その4 [ ∟2007台湾旅行記]

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台南の赤嵌楼(せきかんろう)へ行きました。

羽鳥又男を知っていますか?

▼台湾の近代化に尽くした日本人の名前を挙げると、後藤新平、八田与一、羽鳥又男だという。後藤は台湾総督府民政長官、八田はダム建設の技師、羽鳥は日本人最後の台南市長だ▼三人の中で最も知名度が低く、故郷でも忘れられた存在なのが羽鳥だろう。ところが同市では台湾の文化を守った偉人として、今も敬われ、胸像まであるという▼富士見村出身のキリスト教徒だった。熱帯医学のパイオニアとして名高い親類の羽鳥重郎博士を頼って一九一七(大正六)年、植民地の台湾へ。総督府職員となり、終戦の年まで三年間、市長を務めた▼在任中、孔子廟(びょう)を修理し、祭礼を復活させている。クリスチャンがなぜ…と首をかしげたくなるが、「孔子の教えは国境を超え、時代を超えて永遠に伝承されるべきもの」と考えていた▼軍が幅を利かせた時代だ。神社参拝が強要された。その時、見せた勇気が語り継がれることになる。廟に神棚を置かせて拝ませているのを知り、孔子を祭る場所にふさわしくないと、取り外しを命じたのだ▼胸像が羽鳥家の菩提(ぼだい)寺、珊瑚(さんご)寺(富士見村)にも立つ。台南市の実業家、許文龍さんが業績を知ってもらおうと贈った。開眼法要は来春。宗教的立場を超えて矜持(きょうじ)を守った上州人のキリスト教徒だ。お寺に像があっても不自然ではない。 - 上毛新聞2006年12月24日(日) 【コラム】三山春秋
※羽鳥又男の令息 羽鳥直之氏のサイトから孫引きさせて頂きました。  http://homepage2.nifty.com/hatori/061224joumoushinbun.htm

ガイドさんから聞いたのですが、古刹の釣り鐘を、軍部の供出の要求から守ったりしたそうです。
そんな日本人も居たんですね!

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羽鳥又男の胸像は、文昌閣にあります。日本語の説明もありましたよ。

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海神廟の下の亀たち。

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鄭成功と、降伏するオランダ人。元々赤嵌楼は、一時期この辺りを支配したオランダ人の城。ガイドさんによると、オランダ人は元々跪いていたのですが、それはやめてくれというオランダ側からの意見のため、立って頭を下げた現在の形に変わったそうです。

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